2013/12/31

2013/09/24

コンスタンチン・パレオロガスあるいはオタンチン・パレオロガス

コンスタンチン・パレオロガス

ビザンチン帝国最後の皇帝、コンスタンチン11世。

(1404ー53、在位1449ー53)

マヌエル2世と

ヘレナ・パライオロギナの子。兄の死後、ミストラで即位。王冠はヴェネツィアに質入れしていたので戴冠式はできなかったという。コンスタンチノスでスルタン、メフメト2世の攻撃により、死亡。城の壁とも大理石ともなったと伝えられる。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下は、大辞林第3版(2006)から。

おたんちん 

語義区分 1 まぬけ。人をののしっていう語。  それ だから貴様は  ,パレオロガスだと云ふんだ /吾輩は猫である 漱石 
語義区分 2 遊里語 嫌いな客。 好かぬが  という也 /洒・鄽数可佳妓 」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もう少し長く用例を引用します。

〔泥棒に入られた後、被害届を書く主人夫婦の会話〕

(前略)

「それから?」
「山の芋が一箱」
「山の芋まで持って行ったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつもりか」
「どうするつもりか知りません。泥棒のところへ行って聞いていらっしゃい」
「いくらするか」
「山の芋のねだんまでは知りません」
「そんなら十二円五十銭くらいにしておこう」
「馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、いくら唐津(からつ)から掘って来たって山の芋が十二円五十銭してたまるもんですか」
「しかし御前は知らんと云うじゃないか」
「知りませんわ、知りませんが十二円五十銭なんて法外ですもの」
「知らんけれども十二円五十銭は法外だとは何だ。まるで論理に合わん。それだから貴様はオタンチン・パレオロガスだと云うんだ」
「何ですって」
「オタンチン・パレオロガスだよ」
「何ですそのオタンチン・パレオロガスって云うのは」
「何でもいい。それからあとは――俺の着物は一向(いっこう)出て来んじゃないか」
「あとは何でも宜(よ)うござんす。オタンチン・パレオロガスの意味を聞かして頂戴(ちょうだい)
「意味も何なにもあるもんか」
「教えて下すってもいいじゃありませんか、あなたはよっぽど私を馬鹿にしていらっしゃるのね。きっと人が英語を知らないと思って悪口をおっしゃったんだよ」
愚(ぐ)な事を言わんで、早くあとを云うが好い。早く告訴をせんと品物が返らんぞ」
「どうせ今から告訴をしたって間に合いやしません。それよりか、オタンチン・パレオロガスを教えて頂戴」
「うるさい女だな、意味も何にも無いと云うに」
「そんなら、品物の方もあとはありません」
頑愚(がんぐ)だな。それでは勝手にするがいい。俺はもう盗難告訴を書いてやらんから」
「私も品数(しなかず)を教えて上げません。告訴はあなたが御自分でなさるんですから、私は書いていただかないでも困りません」
「それじゃ廃(よ)そう」と主人は例のごとくふいと立って書斎へ這入(はい)る。細君は茶の間へ引き下がって針箱の前へ坐る。両人ふたり共十分間ばかりは何にもせずに黙って障子を睨(にら)め付けている。
(以下略)


夏目漱石「吾輩は猫である」第五回
(青空文庫から。底本:「夏目漱石全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年9月29日第1刷発行








ミストラの学者たち

平凡社大百科事典を読む楽しみの一つが、思いもかけない執筆者に出会うことです。 おそらく小説を書き出す前の時代の池澤夏樹がギリシアの地名項目、「ミストラ」を執筆しています。
(ほかにも、地名項目や現代文学者の項目を執筆しています)



「ギリシア旅行案内」(川島重成、1995、同時代ライブラリー、岩波書店)にはないが、補筆・改題された「ギリシア紀行」(2001、岩波同時代文庫)には追加されたのはアンナさんの写真だけではない。

最終章「ギリシア・ビザンティン紀行」で時代と空間が広がりました。

そのうちの一つがスパルタ近郊の城砦都市ミストラから輩出された人文主義的知識人たちのこと。マヌエル・クリソラス、イォルイオス・イェミストス・プレトン、ヨアネス・ベッサリオン、コンスタティノス・ラスカリス。




この一節、古典ギリシアに夢中で読み落としてしまいました。

ミストラに関わる学者人名として、新プラトン主義の哲学者「プレトン」、カトリック枢機卿になったビザンティンの人文主義者「ベッサリオン」の項目が平凡社百科では立項されています。カトリック新大百科も同様です。ほかにも外交官の「マヌエル・クリソロス」、文法家「コンスタンティノス・ラスカリス」などがいるようですが、これらの項目はキリスト教人名辞典で見ることができます。

日本語で読めるベッサリオンについての記事はレイノルズ&ウィルソン「古典の継承者たち」が平凡社百科、カトリック新大百科、キリスト教人名辞典などの事典類の記述よりも詳しいようです。事典類が字数制限のためか通り一遍の記述であるのに対し、東西両教会の合同の神学的根拠についての主張を紹介しているところが読めます。

英語だとナイジェル・ウィルソン「ビザンティンからローマへ」のほか、ゲネアコプレス(?Geanakoplos, Deno John)が気になりますが、イタリア語圏やドイツ語圏ではしっかりした研究書もあるようです。井上浩一氏の著作をみればかなりの見通しがたつのではと期待しています。

聖書の写本

ミストラの博物館で。新約聖書ヨハネ福音書の写本。Tzycandyles codex Par. G. 135

Manuel Tzycandyles はミストラで1360年代に活動した有名な写本作成者らしい。
手もとのメッツガーやアーラントを少しのぞいたけれど、よくわかりません。宿題。

「ビザンツ皇妃列伝―憧れの都に咲いた花」


井上浩一「ビザンツ皇妃列伝憧れの都に咲いた花」(白水uブックス、2009)。

帰国後、書棚に埋れていたこの本を発掘。
最終章「ヘレナ・パライオロギナ−−−謎に包まれた最後の皇帝の母」を読了。彼女の過ごしたのビザンティン都市遺構です。






ミストラ



ミストラ。スパルタ近郊。ビザンティン都市遺構。

2013.09.24 行程

・スパルタ市内
競技場前のレオニダスの銅像
スパルタ・アクロポリス
バジリカ
劇場の上に「カルキコス(青銅の)アテーナー」神殿跡
劇場
・オルティア(直立の)アルテミス神殿
・スパルタ市内
スパルタ博物館を見学

・ミストラ ビザンティン遺跡 13世紀中頃建、621メートル エウリョタスの谷間を一望
いくつかの教会(砦から降りてゆく途中)
アギア・ソフィア
アギオス・ニコラオス
パンタナッサ
(女子修道院)
メトロポリス

・子羊料理
・マンティネイア アルカディア スパルタとテーバイとの古戦場 『饗宴』のディオティマの出身地

・アテネ着
ヘロディオンホテル
・タベルナ「VIZANTINO」にて夕食



2013/09/20

裕福なコリントの若者ーーーあるいは短いobituaryと長いepic

「ハルパリンが討たれたのを見て、パリスは激怒した。数あるパラゴネス人の中でも、彼には特に親しい友人であったからで、その死に憤激したパリスは、青銅の鏃の矢を放ったのであるがーーーここのエウケナルなる者がいた、占い師ポリュイドスの子で、裕福で勇気もあり、コリントスに住んでいたが、恐るべき死の運命の訪れるのをよくよく承知の上で、海を渡りこの地に来た男であった。それは常々彼の立派な父、老ポリュドイオスが、お前は自分の屋敷で辛い病いのために身を弱らせて死ぬか、またはアカイア勢の船陣トロイエ勢に討たれるか、そのいずれかである語っていたからであるが、されば彼は辛い想いをするのが厭さに、アカイア方から取り立てられる罰金と、苦しい病のどちらをも避けようとしたのであった。さてパリスはそのエウケノルの顎と耳の下あたりに矢を撃ち込み、たちまち命は彼の肢体を離れ、忌まわしい闇が彼の身を蔽った。」

 (イーリアス13.660〜672、松平千秋訳)




先日、金井美彦氏のよる発表「預言と祭儀と黙示の間ーーーヨエル書の特異性について」(9.30、聖書学研究所例会)を興味深く拝聴しました。

  レジメの最終節の冒頭に次のような一文があります。

「ヨエル書は多層的ないし重層的な文書である。それははじめ預言の形式をとりつつも、やがて祭儀的行動を促す祭儀マニュアルに転じ、最後はあらためて未来の活動を促しつつ現実を耐えしのぶ黙示的文学へと展開する。
(中略)
この文書は聖書文学のシミュラクール、つまり聖書全体を暗示する小さな範例、モデルのようなものであると考えられるかもしれない。・・・」


シミュラクールという言葉のこともボードリヤールという哲学者のこともわかりません。

  神々が課した運命を引き受けるこのコリントの若者についての小さな死亡記事が16,000行におよぶイーリアスの範型となっているのかもしれません。

  アキレウスの予型であるかもしれないエウケノルは、ただただ殺されるためにのみ登場します。イリアスではこの一カ所にしか現れないので、松平訳では固有名詞索引の見出しにもしてもらえません。

コリントから出征した若い武将の運命を伝える記事を読みながら、そんなことを考えました。



人間として得られる最善のもの、あるいはアルゴスの二人の兄弟の物語

ヘロドトス「歴史」1.31〜から(松平訳)


(ギリシアの賢者アテナイの人ソロンに、サルディス(小アジア)の王クロイソスが、「だれかこの世界で一番仕合せな人間に遭われたのかどうか」と尋ねた。自分がそのつもりで尋ねたのあったが。)


(略)
 ソロンがこのように、(アテナイの)テロスの仕合せであった所以(ゆえん)を縷々(るる)として説いたので、クロイソスはいよいよいきまき、自分は少なくとも二位には必ずなれると考えて、テロスについで二番目に最も仕合せな者はだれと思うか、と尋ねた。ソロンがいうに、
 「それはクレオビスとピトンの兄弟でございましょう。二人はアルゴスの生れで、生活も不自由せず、その上体力に大層恵まれておりました。二人ともに体育競技に優勝しており、さらにつぎのような話が伝わっております。
 アルゴスでヘラ女神の祭礼のあった折りのこと、彼らの母親をどうしても牛車で社まで連れてゆかねばならぬことになりました。ところが牛が畑に出ていて時間に間に合いません。時間に終われ、二人の青年が牛代わりに軛(くびき)に就いて車を曵き、母を載せて四十五スタディオンを走破して社へ着いたのでございます。祭礼に集まった群衆の環視の中でこの仕事を成し終えた兄弟は実に見事な大往生を遂げたのでございます。神様はこの実例を持って、人間にとっては生よりもむしろ死が願わしいものであることをはっきりとお示しになったのでございました。
 すなわちアルゴス人たちは彼らを囲んで、男たちは若者の体力を讃えますし、女たちは二人の母親に、何という良い息子を持たれたことかと祝福いたしました。母親は息子たちの奉仕と、二人の良い評判とをいたく喜んで、御神像の前に立って、かくも自分の名誉を揚げてくれた息子のクレオビスとピトンに、人間として得られる最前のものを与えたまえ、と女神に祈ったのでございます。この祈りの後、犠牲と饗宴の行事があり、若者は社の中で眠ったのでありますが、再び起き上がることはことはありませんでした。これが二人の最期だったのでございます。アルゴス人は二人を世にも優れた人物だ炉してその立像を作らせ、デルポイへ奉納いたしたのでございます。」




城壁を固く備へしチイリンス

イーリアス2.557〜567、晩翠訳

十二の船をサラミスの地よりアイア,ス引き來り、

アテーナイ人水陣を据へし傍かたへに整へぬ。
アルゴス及び城壁を固く備へしチイリンス、
深き港灣含みたるアシネー及びヘルミオネー、 560
トロイゼーンとエイオナイ、エピドーロスの葡萄の地、
領する種族、更に又アイギナ及びマーセース、
領する若きアカイア族、率ゐる將は大音の
ヂオメーデース、又次ぎてカパニュウスの子ステネロス。
祖父はタラオス、王たりしメーキストを父として、 565
勇武さながら神に似るユゥリュアロスは將の三、
されども高き音聲のヂオメーデース全隊を
統べたり、黒き八十の軍船彼等に附き來る。




2013.09.20 行程

・ティリンス城壁  車窓から
・アルゴス・ヘラ神殿
・ミケーネ
古代王宮遺跡、美術館を
ライオン・ゲート
美術館
アトレウスの宝庫
・コリントス
アポロン神殿・遺跡
ベーマ(演台) パウロが説教(法廷弁明?)
・コリント運河岸のタベルナにて、魚フライ+スブラキで昼食
橋が沈んで船を通す場面を二回見る
・イストミア  スタジアム跡
・ケンクレアイ 古代港跡
・エピダウロス
アスクレピオスの神域
カタゴゲイオン(古代ホテル)跡
オデオンが目立つ
トロス
アバトン(癒しの場)
美術館
古代円形劇場跡
ナフプリオンに帰着 海岸を散歩 夕食 ソーセージ

2013/09/18

レストラン

キラ(古代のイテア)


突堤でバスが方向転換をした。

ヘリコーン山のムーサイ

ヘリコーン山の東斜面

Martin L. West
The east face of Helicon : west Asiatic elements in Greek poetry and myth(1999, OUP)

という興味深そうなタイトルの本があります。また、同じ著者に

Indo-Euro Poetry and Myth(2007, OUP)

というのもあります。なんだかヘリコーン山の東麓では何かしら面白そうなことが起こっているのかもしれません。

http://www.amazon.co.jp/The-East-Face-Helicon-Elements/dp/0198152213/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1381131740&sr=1-1&keywords=The+east+face+of+Helicon

http://www.amazon.co.jp/WEST-INDO-EURO-M-L-West/dp/0199280754/ref=sr_1_fkmr1_3?s=english-books&ie=UTF8&qid=1381131619&sr=1-3-fkmr1&keywords=%22Martin+L.+West%22++myth

「ヘリコーン山の東斜面」について言及した書籍に気がつくことはありませんでした。

例外的に、マーティン・バナールの「黒いアテナ」の一連の著作の最後(?)「批判に答える」(2巻)中、何ページかにわたる言及があったように記憶します。

印欧語族の神話や儀礼との類似を指摘されても読者としては、ああ、そうですか、という他ありません。

ところで、マーティン・バナールの評価ってどうなんでしょう。

ヘリコーン山


オシオスルカス修道院のテラスからの眺めです。
 標高1750m。
ムーサたち(ムーサイ、音楽の女神たち)の住まう山として古来有名。

尋ねることができなかったが、東の山麓には詩人ヘシオドスの故地とされるアスクラーの町がある。


オシオス・ルカス修道院 その2

オシオス・ルカス修道院

三叉路の場所(?) 

その場所を巡って、フレーザー=川島説のほかにも、馬場説などもあるそうですが、いまは議論の詳細をフォローすることができません。宿題にしていずれゆっくり。


(1)
James Gerge Frazer
Pausanias's Description of Greece  6 Volume Set (Cambridge Library Collection - Classics)

http://www.amazon.co.jp/Pausaniass-Description-Cambridge-Library-Collection/dp/1108047297/ref=sr_1_8?s=english-books&ie=UTF8&qid=1381126100&sr=1-8&keywords=Frazer+Pausanias%27s+Description+of+Greece

J.G.フレーザーによるパウサニアス「ギリシア記」の英訳と注釈。
リプリントは安くはないですが入手可能です。電子データもてにはいるようです。1889頃の著作で、金枝篇初版の刊行と相前後しているようです。安楽椅子人類学者の際たるものと呼ばれていたフレーザーですが、ギリシアは旅行したようです。三叉路に立ったのかどうかは未確認。

(2)
馬場恵二「スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と中部ギリシア内陸・湾岸交通路-『駿台史学(第81巻pp191〜211、1991年)。

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/6087
オンラインで読むこともできます。


オイディプス朗誦



同行のS氏が「オイディプス王」の冒頭を朗誦して下さいました。

オイディプスの三叉路

御者

御者

御者

御者

御者

兄弟

兄弟

2018.09.18 行程

・デルフィー
デルフィー遺跡
・博物館
・デルフィー発
オイディプス悲劇の舞台「三叉路」
・オシオス・ルカス オシオス・ルカス修道院
キラ(古代のイテア)港で停車
イテア ムール貝、バカヤロ(鱈)、ザリガニの一種、ワイン
パトラの正教会
オリンピア着


2013/09/17

ペロポネソス戦争 アテーナイ戦没者の国葬 ペリクレスの演説 トゥーキュディデース戦史2.40.1〜

「われらは質朴なる美を愛し、柔弱に堕することなき知を愛する。われらは富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。また身の貧しさを認めることを恥とはしないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く恥じる。そして己れの家計同様に国の計にもよく心を用い、己れの生業の熟達をはげむかたわら、国政の進むべき道に十分な判断をもつように心得る。ただわれらのみは、公私両域の活動に関与せぬものを閑を楽しむ人とは言わず、ただ無益な人間と見做す。・・・」

(トゥーキュディデース著、久保正彰訳「戦史」2.40.1〜、)



ペロポネソス戦争 アテーナイの疫病 トゥーキュディデース「戦史」2.52

この只でさえ容易ならぬ事態を、一そう窮迫させたのは、地方から都市への集団入居であり、双方相重なって地方からの入居者は誰よりも悲惨な苦しみを強いられた。住むべき家もなく四季をつうじてむせかえるような小屋がけの下に寝起きしていた入居者たちを、死は露骨な醜悪さでおそった。
次々と息絶えていく物たちの体は、容赦なく屍体の上につみかさねられ、街路にも累々と転がり、ありとあらゆる泉水の廻りにも水を求める瀕死者の体が蟻集していた。入居者たちが小屋がけをして暮していた神殿諸社は、その場で息を引きとる者たちの屍で、みるみる満たされていった。
災害の暴威が過度につのると、人間は己れがどうなるかを推し測ることができなくなって、神聖とか清浄などという一さいの宗教感情をかえりみなくなる。こうしてかつての埋葬の慣習や仕来たりなどはことごとく覆されて、各人できうる範囲で埋葬の処置をすませるようになった。
しかし家族のなかに病死者が続出するにいたっては、火葬をいとなむ薪材にさえこと欠いて、恥も謹みもない葬いをおこなう者さえ多勢あらわれた。
たとえば、他人がしつらえた火葬壇を先廻りりして手に入れると、自分たちの身内の屍体をその上に乗せていちはやく火をつける者、すでに燃えている他人の亡骸の上に自分らが運んできた遺体を投げおろして帰っていく者、などが現れたのである。
(トゥーキュディデース「戦史」2.52、久保正彰訳)

ペロポネソス戦争 民議会でのペリクレースの演説 トゥーキュディデース戦史1.139〜

〔戦史1.39〕
(略)
アテーナイ人は民議会を招集し、自分たちの間で意見をのべあったが、この際一切の問題についてかれらの態度を最終的に決定し、相手側に返答すべきである、ということになった。そこで大勢の市民らが登壇し、ある者は開戦の是を説き、またある者はメガラ禁令のために平和を乱すな、これを解除すべきである、と和戦両論が繰りひろげられたが、そのときクサンティッポスの子ペリクレースが登壇した。かれは当時のアテーナイでは第一人者と目され、弁舌・実行の両面においてならびない能力をもつ人物であったが、次のごとき忠告を与えた。
〔戦史1.140〕
「アテーナイ人諸君、私の言わんとする主張はつねと変わりない。ペロポネーソス側にたいして一歩も妥協してはならぬ。もとより私も知っている、人は開戦支持に傾くときには一つの感情に支配されるが、戦が始まってみるとまたべつの感情に動かされる、そして事態の推移とともに判断も変っていく。ともあれ現在、私としてはふたたび今までと同様同一の見解を諸君に呈すべき立場にあると思う。諸君のなかで私の意見に承服する人々の義務は、万が一われらが蹉跌することがあっても、共に計り共に決議した政策をあくまでももり立てていくこと。さもなくば、逆にわれらが勝利を克ちえた暁にも、それをわれらの知の結集として誇ることはできない。なぜならば、事件の推移・戦場の勝敗はつねに知性によってははかりがたい低迷をたどることが知られている、すくなくとも人間の考と同様あてにはならぬ。われらが知性によって予測できない事態に出あうと、これをみな運命の力に帰するのもそのためである。
(略)
〔戦史1.141〕
されば今ここで諸君の決心を要求する。身に害を蒙る前に屈服するか、それとも、私がよしと判断するように、戦うか、そして若し戦うとすれば、原因の軽重のいかんにかかわらず妥協を排し、汲々たる現状維持を忌避する態度を決して貰いたい。なぜならば、対等たるべき間柄の一国が他の国に、法的根拠もない要求を強いれば、事の大小如何にかかわらず、これは相手に隷属を強いるにことにひとしい。
(略)
〔戦史1.144〕
(略)
戦争は不可避であると覚悟せねばならぬ、そしてわれらが進んで敵の挑戦に応じるならば、敵は進撃の機をそがれる、また存亡の危機を克服することによってポリスも市民も、不滅の栄光を克ちえられるのだと、決意をあらたにすることを望む。思えばわれらの父はペルシア勢の進撃を迎えて、今日ほどの蓄のある基地を持っていたわではない、それどころか一切の家族をもすて、遇倖でなく作戦を、戦備ではなく胆力を頼りにしてみごとペルシア勢を撃退し、アテーナイを今日の大にみちびいた。父に劣ることがあってはならぬ、ただ全智全能をつくして敵を撃破し、いやまさるアテーナイの力をわが子らに譲り渡すべく努めねばならぬ。」
〔戦史1.145〕
ペリクレースはこのような発言をおこなった。アテーナイ人は、かれの忠告を最上のものと考え、かれの提案を可決した。
(略)

トゥーキュディデース著、久保正彰訳「戦史」(岩波文庫、3巻、1966)



ペリクレス 

Periklēs [人名]
前495頃 前429 古代アテネの政治家。貴族会議の権限を奪い民主的改革を断行,デロス同盟への支配力を高めアテネの黄金時代を築いた。

ペロポネソスせんそう

   戦争
紀元前431年から前404年まで,アテネとスパルタがギリシャ世界を二分して覇権を争った戦争。スパルタの勝利に終わったが,ギリシャ全体の衰退への転機となった。

(三版大辞林)



丘の上の民主政(書籍)


手始めは、次の一冊。
橋場弦「丘の上の民主政 古代アテネの実験」(1997、東京大学出版会)。
丘のうえの民主政―古代アテネの実験

このカバー写真、説明によると「プニュクス方面から望むアクロポリス、このアングルからみたパルテノン神殿が最も美しいといわれる」とのこと。「逆さ富士」みたいです。


ジャケットカバーの写真だけでなく、なかの図版もいいです。

面白く再読できそうです。



アテネの競技場





新国立競技場案との対比でこのすっきりとした仰角の低い競技場を眺めました。




槇 文彦「新国立競技場案を 神宮外苑の歴史的文脈の中で考える
http://www.jia.or.jp/resources/bulletins/000/034/0000034/file/bE2fOwgf.pdf



プニュクス(民会場)からアレオパゴスを望む

民会場

2013.09.17 行程


(橋場弦「丘のうえの民主政」の地図に落書きしました)




・アテネ市内

ホテル前から、ディオニュソス神域・劇場跡経由でアクロポリスへ

ヘロデス・アッティクス(ヘロディオンホテルの名前の由来)の劇場

アクロポリス

アクロポリス下の洞窟(パン、アポロン、ゼウス)

・アレオパゴスの丘

・古代アゴラ
美術館
中央柱廊、
評議会、
月番評議員詰所、
牢獄跡(?ソクラテスが収容)
ヘパイストス神殿

・ピレウス
ピレウス博物館

昼食

・午後再びアテネ市内

アクロポリス博物館

古代民会跡

近代オリンピックスタディアム

・アテネ発

2013/09/16

ヘロディオン・ホテル屋上からアクロポリスを望む


日の出前後の早い時間にホテルの屋上から撮影しました。夏時間だったので、6:00amすぎだったかと思います。右手の方が東です。夜はライトアップがしてあって見事でした。


日本との時差は6時間で、ダルエスサラームやカイロと同じでした。

2013.09.16 行程

・ピレウス港
・エギナ島(アイギナ島)
・アフェア神殿
・アギオス・メナス女子修道院
・アギオス・ネクタリオス教会見学
・漁村ペリディカ   昼食 
・高速船でピレウスに港に戻る
・アテネ市内
   フィロパポスの丘
   アテネ中央  軽い夕食
    国会議事堂前、シンタグマ広場からアクロポリスまで地下鉄体験 

2013/09/15

2013.09.15-09.26 書籍と旅行

気の利いた文が書けるわけでもなく、美しい写真を撮るわけでもありません。

本棚で埋もれていたり、これから読もうと、手に入れようと思っている書籍などを一緒に紹介できればと思います。



2013.09.15-09.26 アンナさん




今回のギリシア旅行のガイドを務めてくれたのはアンナさん。
「ギリシア旅行案内」(川島重成、1995、同時代ライブラリー、岩波書店)には写真がなかったのですが、補筆・改題された「ギリシア紀行」(2001、岩波同時代文庫)には「イタケ島で小山羊を抱くガイドのアンナ」という写真が掲げられています。興味のあるかたはp.297を参照のこと。
ピンチをチャンスにかえてくれる素敵な方でした。


2013.09.15-09.26 日程表

日程の記録は、この旅行をご一緒させていただいたNK氏が作成されました。

その詳細な記録を自由に使用させていただいています。
この記録がなかったらとっくにあきらめていたことでしょう。
あらためて感謝もうしあげます。

2013.09.15-09.26 ギリシア旅行


09.15 NRT, Alitalia Airways
09.15 Rome
09.16 Athens, Herodion Hotel
09.17 Athene
09.18 Delphi, Acropole Hotel
09.19 Olympia, Olympian Asty Hotel
09.20 Nafplion, Rex Hotel
09.21 Nafplion
09.22 Monemvasia, The Flower of Monemvasia
09.23 Sparti, Maniatis Hotel
09.24 Athens, Herodion Hotel
09.25 Rome, Alitaila Airways
09.25 Rome
09.26 NRT

2013/09/14

test














(test)




























 

test20130914

練習

2013/09/08

2013.09.08 Ohkubo

昼食です。